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議論と言葉の定義(1)

In Uncategorized on 1月 14, 2011 by nows22

この様な話があります。インドのある村に5人の盲人がおりました。同時に象も一頭おりましたが、5人は全員象というものを知りませんでした。そこでそれら5人は象を触りながら象がどの様なものであるかを話し合いました。一人は象の尻尾を触りながら「象はほうきの様なものである」と言いました。他の一人は象の鼻を触りながら反論して「象はホースのようなものである」と言いました。別の一人は象の足を触りながら「象は柱のようなものである」といいました。残る二人のうち一人は象の耳を触りながら「いやいや象は団扇のようなものである」といいました。最後の一人は象のお尻をさわりながら「象は壁のようなものである」と言い張りました。誰も譲りません。象の話は食い違い、混乱していきました。

象と目隠しをした人達~「象とは何か?」

このブログの読者の方々も会議や普通の会話において似たような経験をしたことがありませんか。「議題」や「中心となる言葉」の定義がなされていないと、その議論や話し合いが混乱したり、あらぬ方向に進んでしまうことがあります。もし言葉の定義に問題があれることがわかれば、「何だーそうだったのか」ということになるでしょう。それに気づかねば認識が食い違ったままでプロジェクトが進んでしまったり、それぞれ違う行動に出てしまったりすることがあります。

私が物語や文学など以外の英語の本を読むときには、重要な言葉の定義に何ページも使っているものを頻繁に見受けます。読者の認識や理解の統一を確保するのです。思うに日本では「曖昧さを許す、または尊ぶ文化」、「曖昧なものに美意識、または感性が動かされる心の機微」といったものがあるのかもしれません。また昨今の外国との領土問題の様に関しては、曖昧にしておくことにより当座の争いを避ける計らい(現代社会では、これは戦略的な先延ばしは例外であるが、致命的な間違い)のような場合もあるでしょう。しかし、仕事や多人数が係わる活動の中などでは、議論や話し合いは曖昧さを避け言葉の定義を明確にして進めなければなりません。特に世代や専門の違う人が集まるときは気をつけねばなりません。ましてや海外に出ると言葉の定義が必須の場合がより多くなるでしょう。

かなり前、NHKの討論番組を観ました。「中国は日本のライバルか?」という議題について議論をしてました。しかしこの番組を見ながら私は何かおかしいと気づき、言葉の定義がなされていないと判断しました。ある人は「ライバル」を「敵」と解釈し、一方では「一緒に頑張る仲間」と解釈している人もおりましたし、その中間の最近政治家がよく言う「戦略的互恵関係」と認識する人も居たので議論が混乱をしてました。そこの中に日本語がある程度堪能な外国人も居たので、混乱に拍車をかけておりましたし、英語を母国語としない外国人は更に勝手な解釈をしていたのかもしれません。深読みをすると、カタカナではVはBに近い発音なので、外国人等はrival ではなく、libel(中傷)と聞こえて(またはライバルという紙のうえの言葉を読んで)「中傷する関係はいかん!」として混乱を加えたのかもしれません。英語を母国語とする外国人としない外国人もいれば、さらに訳が分からなくなるでしょう。「ライバル」は和製英語であるので特に注意が必要のはずでした。そこで司会者がまず言葉の定義をしておけば良い議論の場となったはずです。もともとの日本語は漢字を読むことにより言葉の持つ意味合いがよりはっきりするものでありますが、外来語と新しい造語については特に気をつけるべきでしょう。

海外に目を向けると、欧米の知識人のように言葉の定義をしっかりとするグループからアジアの一部の様に比較的曖昧な文化をもつグループ、インドのように明確な論理と感性に浸りきった考え方の混在する複雑なグループなど多種多様であります。そこで、我々は自ら重要な言葉の定義を明確にすることにより、余計な苦労や時間の無駄、誤解や混乱を避けることが出来ると考えます。

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