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日本人労働者は国家や会社を支えるロボット?時代についていけないロボットは?

In Uncategorized on 6月 1, 2012 by nows22

高度成長期の日本人は、経済発展を神輿の旗として学校教育は暗記を中心に知識詰め込み型を選択しました。一方で会社員は、社員研修・会社現場での学習・男は仕事で女は家庭の棲み分け・長時間労働・会社への時間的物質的精神的帰属(飲み会・カラオケ・麻雀・ゴルフ・社員寮・社内クラブ・社内運動会・社歌・何時も付けている社章など)・不文律としての終身雇用/年功序列など、加えて転職市場が極めて小さいことから、会社に忠誠を示しそのためには家庭や子供との対話も犠牲にして馬車馬のように働いてきました。

ひるがえって、1990年代と21世紀の日本では政治・経済・制度の改革が一向に進まず、国民は下向き・内向きになっているというのは多くのメディアが伝えているところです。その理由は、教育の制度、会社の管理法・体制・文化の問題、我々国民ひとりひとりの考え方の問題となると思います。

(1)教育:暗記教育は、CDRom一枚またはWikipediaにとって代われる。つまり記憶による知識の積み上げの価値は、パソコン一台でいつでも入手可能ということであります。しかし、どのような知識でも理解に至るには、読解力・その知識を理解するために必要な周辺の知識をいちいち追い求めてから理解することのない位の包括的知識量・理解力が必要となり、断片的な記憶では理解に進まないことがあります。これは、ある程度はこれまでの教育でも進められてきましたが、それ以上は深められていないといえます。より大事なことは、こういった理解に加えて事象の背景を学び時間や場所を変えてみて比較検討したり自分の意見や考え方を作っていくことです。例えば、現代のグローバル経済は、過去の歴史でローマやモンゴルなどの帝国とはどこが違いどこが参考すべき部分であるか、グローバル経済は地球の隅々まで浸透しているのか、それともそれを妨げる原因は規制や文化などのどのようなことがあるか、この現象についてどうあるべきかどう対応すべきかと続くでしょう。過去の帝国の話から現代と比較することもありでしょう。

それと業者のテストと標準偏差率から発展した偏差値での評価。教師にとって評価は簡単です。しかし、欧州や北アメリカのように絶対評価となると学校や教師もしっかりとした科目の理解度や創造性を図る物差しを持たねばなりません。他人より勝つ、他人より上に行くことが教育の目的でしょうか。目的とは学問なり学科を極めることではないでしょうか。企業でも他社より売り上げを上げたり、出し抜くことが目的ではなく、依頼人や消費者が製品やサービスを喜んでもらって受け入れてくれてそれが利益につながることが目的です。企業間競争は、そのための戦略のひとつ、またはその二次的結果です。あるいはその企業の成長が一番必要な時期に営業部なり開発部にシェアを目標として貼り付けることもあります。しかしながら、全社的な基本目標は前者となります。競争相手の出方を視ながらそれに対応することばかり考えていは、順応してくだけです。肝心な改善や発見/発明などは常に依頼人や消費者を意識して生まれます。まして未成年が学ぶ大学未満の学校で2・3年間の相対評価で成人後に何の意味があるのでしょう。

(2)会社員:マニュアル化・体制に沿った一糸乱れぬ行動・組織への忠誠といったことが、工業化時代の日本企業の組織的強みでありと思います。1970年代にデミングは、「仕事の94%の実績は体制(System)から生まれ、個人の属性による貢献は小さな部分にすぎない」との研究結果を発表しました。確かにこの時代の産業は日本やドイツが良い例ですが、規則・規制、そして同じ方向性に一団となって進む教育や文化によって大きく発展してきました。確かに体制論は、大量生産に係る製造業や多くの人材を使う運輸業などのサービス部門にとっては未だに効率を一番あげるやりかたでありましょうし、21世紀にはそれが多くのアジアをはじめとする新興国に浸透していっていることは間違いのない事実であります。

現在の日本や米国などの先進国の経済的不調は、世界的金融バブル破たんと欧州の国家財政危機を除けば、多くの製造業が新興国に出て行っていることがあります。日本はこれが比較的最近まで顕著でなかったものが、あまりの円高でやっと進出が加速したといえましょう。

そして、技術の発展は産業機械の発展・ITビジネスソフトウェア・生産ラインのコンピューター化・事務部門の電算化などにより人間の労働にとってかわりつつあります。本来ITは使いこなすものでありますが、実際かえって労働者を排除するものなっています。個人レベルで使いこなせていないところに日本の悲しい現実があります。人件費をITにより圧縮するという企業の論理に基づく実行が続いても、一般の人の強い味方にもなるはずがこの国では前者の方が強すぎます。実際、「日本人は綺麗な資料を作るが目にうるさすぎる」という議論も外国人らにはああるのです。お客様に出すデザインは別ですが、内部資料として綺麗に作るのはパソコンの本来の目的ではありません。国家・会社・親・教科書・マニュアルに言われた通りにやってきた人が、能動的に使うと個人の強い味方になるITを利用できないのは国家的弱みともなると思います。ITはもともと自立心が非常に強い国で発展したのです。能動的な利用ができると全然仕事にもその他活動にも違いが生まれます。

加えて、会社組織の硬直化。読めば分かるものを読み合わせ、根回ししたものを発表し、成績の悪いものを吊し上げ、要人の発表を聴くだけの会議。リスクをとって失敗すれば評価は下がるが、今までのようにやっていれば徐々に地位も収入も上がっていく構造と文化。上手くいったときの褒めより、失敗の叱責の方が強くなってしまう文化。上役の顔色を窺って新しい案を出せない雰囲気と自己保身。女性を管理職に使うとそれ以前より業績が上がったという直近のデータがありますが、それは男性の企画や創造の能力がもともと低いのではなく、こういうことだと思います:しがらみを超えて発表してしまえる立場と会議などの公式な主張を通せる環境の利用(男性社員は飲み会でこそこそ自分だったらこうすると仲間内で・・・)、家庭や子供のPTA・街の商店街の会話・習い事やスポーツジムなど社会に溶け込んでいるため違う環境からのインスピレーションがあること(男性社員は仕事が終わっても社内または同部署ばかりの環境)、社内のつきあいによる二日酔いと疲れで創造性を落ち込ませていないことなど。まるで社外取締役です。

高度成長がずっと続き1990年代も一時的な不況と思い続けてきた日本企業も21世紀には構造的不況だとやっと気づき、政治不在、内需の冷え込み、リスクを負わず数も多い中高年などにより、人件費を下げ人材を活性化するために、人材削減も行ってきました。

◆まとめます。日本の学生も労働者も、新興国の安い賃金の人々ができる仕事・機械やITシステムがとって替れる仕事を目指して就職や転職をすることには問題があるはずです。いままで経済発展のロボットとして学校でも職場でも教育されてきた人々には酷に感じることかもしれませんが、30年も高度成長を謳歌して国家は米国追従・金権外交でやり方を変えず、学校は知識詰め込みで、会社は社員に忠誠を求め、社員は自分の首を会社に差し出してきました。そのため、それまでを振り返ったり現状を見つめて考えたり改革(改善ではない)をしてこなかった「付け」が今でてきているのであって、ほかの国や他の時代ではこのような酷なことはあたりまえ、言葉を替えれば普通のことです。頑張れば上手くいくのであれば、歴史も世界も遥かに良い段階になっていたでしょう。今日本人は幕末の志士のように、海外に目を向け、勉学に燃えながら仕事に邁進し、常に「何故・どうして・どうやったら」を考える習慣を身に着けることが必要になると思います。これを女性も一緒にやっていけば明治維新より質の高いものになるでしょう。

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